デジタル・イメージ

●はじめに:コンピュータの歴史

 計算に使う道具、演算操作を行う道具という意味での計算機(カルキュレータ=caluculator)の歴史は古く、そのうち我々に身近なものとしてはそろばんや計算尺などがある。その後歯車や穿孔カード(パンチカード)などを使用した機械式計算機や、リレー(継電器)による電気機械式計算機の発明が続いた後、20世紀中頃になってようやく最初のデジタル・コンピュータが登場する。コンピュータの定義を、演算結果が純電子的な作用によって得られる装置、「デジタル電子計算機」と規定すれば、1939年にアメリカのアイオワ州立大学のジョン・ヴィンセント・アタナソフとクリフォード・ベリーがヘリウムの誘電率の近似解を求めるために作成した試作ABCマシン(Atanasoff Berry computer)が最初のコンピュータという事になる(注1)

 コンピュータの歴史はこうして始まったものの、しかしそれは現在我々が見慣れているコンピュータのイメージとは大きく異なっている。まずその物理的スケールにおいて巨大であるという事が外見上の大きな違いとして上げられる(注2)。だが視覚メディアを扱う我々にとって最も重要な相違点は、出力装置(出力デバイス)としてグラフィックスを扱うディスプレイやプリンタが見あたらない事だろう。当時のコンピュータは科学技術用のデータを高速に解析したり、大量のビジネスデータを処理する計算機以上のものではなく、プログラミングや操作の専門家によって運用管理されていた。ディスプレイを備えた装置はいくつか存在したものの、そのほとんどはあくまでデータの確認作業という管理上の必要性によるものであり、1970年代の中盤まではコンピュータにグラフィックスそれ自体を主題的に扱わせるといった発想自体が一般的には存在しなかった。

 コンピュータにおけるグラフィックスの大衆化が始まるのは、1970年代の中頃にパーソナルコンピュータ(パソコン)が出現してからである(注3)。その最初のプロダクトはMITSのアルテア(1975年)というマシンであったが、商業的成功を重視するならばパソコンの歴史はアップル社のアップルII(1977年)から始まったと言っていいだろう。アップルIIはそれまでのマニア向けワンボードマイコン(むき出しの基盤状コンピュータ)とは一線を画し、プラスチック筐体に入った本体にキーボードとモニタが用意され、商品としての完成度が高かった。

この後パソコン市場にタンディやコモドールなどの企業参入が続くが、その多くはベンチャーであり、一般的にはパソコンはホビイストのための「玩具」という見方をされていた。1981年にメインフレーム(大型コンピュータ)のメーカーであったコンピュータ界の巨人IBMが、IBM-PCというマシンを出したことにより、パソコンは本格的なビジネスツールとして歩みだす。このIBM-PCが今のウィンドウズマシンの基礎になっている。しかし現在のパーソナルデジタルツールの道筋をつけたという点から言えば、アップルII登場の4年前に作られたゼロックス・パロアルト研究所(PARC)のアルトというコンピュータ、そしてそのコンセプトの核となる「ダイナブック(注4)構想」こそがもっとも重要なプロジェクトであり、現在もなおコンピュータの世界に多大な影響力を与えている思想であると言っていい。

●ダイナブックという思想

 1968年アラン・ケイは、究極のパーソナルなメディア「ダイナブック」の構想を発表した。ダイナブックとはノートサイズのパーソナル・ダイナミック・メディアであり、ケイによればそれは「可能な限り小型で、持ち運びも自由で、人間の感覚機能に近い量を出し入れでき、新聞より質の高いビジュアル、オーディオ機能をもつデバイス」である。当時はまだ高価な大型コンピュータ、メインフレームが幅を利かせていた時代であり、コンピュータは一部専門家の専有物であった。そのような時代に、子どもでも簡単に扱え、持ち運び可能で、絵が描け、それを画面上で動かしたり、さらには作曲、演奏するための表現メディアとして、大衆に安価に提供しようと構想した功績は大きい。後にケイは人間の知識の伝達や操作などの研究施設であるPARCの研究員としてアルトの開発に参画し、ダイナブック構想の具体化の一歩を踏み出すことになる。ハードウェアとしてのアルト自体は、当時の生産技術がケイの構想に追いつかず、今のデスクトップパソコンのレベルからしても決して小さいとは言えないが、パーソナルに使用できるディスプレイを保持し、またGUI(グラフィカル・ユーザ・インタフェース)やマウスなどのポインティングデバイスを搭載し、オブジェクト指向言語を採用するなど、現在のパソコンのほとんどの原型がここで生まれたといっていい(注5)。ダイナブックの理念は、その後登場した数々のデジタル機器によって一部実現されているが、いまだに完成形には至っていない。

●コンピュータの特質
 ケイは、人間とメディアについての考察を次のように書いている。

 メッセージのかたちでメディアに収められた情報を、様々な方法で蓄積し、取り出し、操作するデバイスは何千年も前からあった。人間は他人や自分自身に思考や感覚を伝えるのにこれを利用してきた。思考は頭のなかにあるが、これが外部メディアによって形を与えられ、フィードバックすることによって、思考のたどる経路の拡大が可能になる。ただ、紙の上の記号、壁の絵、そして映画やTVなどでは、見る側の意思によって変化することはない。

 これは有史以来、人間とメディアの係わり方は非対話型で、受動的であったことの証しだ。数学の式で宇宙の全体像を記号化することができたとしても、数式が書かれてしまえば、それはもはや変化することはない。その式の意味する可能性を拡大するのは読む人の作業となる。あらゆるメッセージは、なんらかの意味で、なにかの概念のシミュレーションである。メディアの本質はメッセージの収め方、変形方法、見方に大きく左右される。 (*1)

 コンピュータが道具ではなくメディアだと見抜いていた彼は、絵画や写真、映像などの伝統的なメディアの特質を、非対話型で受動的、一方向的なものと規定した上で、その対概念としてコンピュータを対置する。

 コンピュータは本来、計算を目的に設計されたが、記述可能なモデルなら何でも精密にシミュレートする能力をもっている。従ってメッセージの見方と収め方を工夫すれば、メディアとしてのコンピュータは、他のいかなるメディアにもなり得る。

 しかも、コンピュータメディアは問い合わせに対応できるという能動性をもっているので、メッセージは学習者を双方向的対話に引き込むことができる。これは過去においては教師というメディア以外では不可能なことだった。(*2)

  対話型で能動的、双方向性(インタラクティブ)という特質がコンピュータ以前とそれ以後を分ける重要な転回点であることをケイは早くも指摘している。またコンピュータが最初のメタ(上位)メディアであり、そこで生起するイメージもまたメタイメージであることを見抜いていた。その意味で今日のポスト・イメージ(脱イメージ)、ポスト・フォトグラフィー(脱写真)の時代を予見していたとも言える。

●再構成された眼

 写真、映画、ビデオ、デジタルカメラなどのカメラ・オブスキュラの子孫は、それが化学的であるか電子的なものであるかを問わず、対象物とその再現という点において共通点を持っている。出来事がある露光の瞬間に起り、写真を見る者が時系列を乱されることなくその時間、空間、存在へと引き戻されるというのが写真の本質である(注6)。西欧近代的な再現表象(注7)を秩序化するための道具として15世紀に出現したカメラ・オブスキュラと現在のデジタルカメラは原理的にも理念的にも同一であり、その意味で「古い」メディアである。写真的なコミュニケーションはケイも言っているように撮影者から鑑賞者へという一方向性を持ち、そこでは交換、相互性は起こらない。スーザン・ソンタグが書いているように「一枚の写真は、あることが起きたという疑い得ない証拠となる(写真論)」のだ。

 他方デジタルイメージは何も再現表象しない。それは対象物の光学的な複製物ではないからだ。したがって対象物の特定はもとより撮影者=目撃者の位置すら失わせる。「かつてあった」厳密な過去の一点へと見る者を送り届けるのではなく、「あることができる」可能性としての時間へと送り出す(注8)。かつてダゲレオタイプが発明された時、それは「記憶を持った鏡」と呼ばれたが、デジタルイメージのシステムは「ディスプレイを持った記憶(メモリ)」と考えることができるとマサチューセッツ工科大のウィリアム・J・ミッチェルは指摘する。

 われわれが日常的に見る写真の大部分は「印刷」されたものである。オリジナルプリントを見るというのは今や特殊な出来事であり、現代人は膨大な印刷写真の中で暮らしている。写真が印刷に適した網点写真の形になるにはドラムスキャナで数値化されなければならず、新聞の電送写真の頃から、写真にはすでにデジタル技術の網がかぶせられていた。当然写真は操作可能なメディアになり、また実際に流通している写真の多くは「事実」を映し出す鏡であることをやめてしまっている(注9)。時間や存在は切り刻まれ再構成され、それが新たな一つの環境として形成される。

●デジタルエイジの夜

 ディスプレイ上の光と闇は数字上の違いでしかない(注10)。写真と違い、実在との照応関係から切り離されたデジタルイメージの光と闇は、モダンアートが必死になって排除してきた文学的なものを、再び別な形で復活させているという見方もある(注11)

デジタル時代の夜はその時間感覚からして、それ以前とは変質してきているのかもしれない。全面化しつつあるそうした時間とわれわれが生得的に持ち合わせている時間、あるいは一方向に流れていると一般的に信じられている時間はどう違い、どう関係しているのか。さまざまな時間を想起し、時間とは一体何なのかを考えてみたい。

(注1)かつては1946年のペンシルバニア大学ムーアスクールのモークリーとエッカートによるENIAC(Electronic Numerical Integrator And Calculator) が世界最初のコンピュータであるというのがコンピュータ史の通説だった。

しかしこの常識が覆るきっかけとなったのが、1967年に始まるENIAC特許(すべてのコンピュータメーカーからデジタルコンピュータの特許料を徴収する権利)を有するスペリー・ランド社(現ユニシス)と、その特許料支払いを拒否したハネウェル社との間に起きた裁判だった。

その課程でモークリーがアタナソフに会う前にはデジタル電子計算機のアイディアを持っていなかったこと、またアタナソフの家に5泊しABCを徹底的に調べ上げていたことなどが明らかになる。1973年、ミネアポリス地裁はENIACがABCの基本思想のもとに開発されたものであり、ENIAC特許自体が無効である旨の判決を下した。こうして世界最初のコンピュータの栄誉はENIACからABCへと移る。

ただしいまだに大多数のコンピュータ関連の文献は、この判決後4半世紀以上経った現在に於いても、この点について訂正されていないのが実状である。

ちなみにここで勝訴したハネウェル社は、1992年にカメラの自動焦点モジュールをめぐる裁判においても日本のミノルタ社に勝ち、莫大な特許料支払いのため当時のミノルタの経営に少なからぬ打撃を与えた会社としても有名である。

(注2)一昔前のSF映画やマンガなどに頻繁に現れた、「すべてのものの中心に君臨する巨大なコンピュータ」の象徴的イメージは。この時代のコンピュータの記憶が影響している。ネットワークを介した分散処理が当たり前になった最近ではこのイメージはすっかり時代遅れのものとなってしまった。

(注3)インタラクティブ(双方向的)な操作のモニタリングにディスプレイ装置を使用する点で、コンピュータよりもはるかに歴史が長いのがテレビゲームである。

その世界最初の商業的成功例は1972年のアタリ社の「ポン」であり、発明品としての第一号は「スペース・ウォー」(1962年)だとされている。もっとも最近では1958年にアメリカ・ブルックヘイブン国立研究所のウィリー・ヒギンボーサムが、研究所の見学者サービスとして作ったオシロスコープ画面を利用したテニスゲームが最初であるという説が有力視されている。

初期のパソコンの主な利用方法が、プログラミングとゲームだったことを考えれば、入力装置や出力装置、GUIなどのコンピュータの主要な進化はテレビゲームの影響を抜きには考えられなかったと言える。

(注4)東芝の商品(ノートパソコン)とは全く無関係。

(注5)アップル社の創設者の一人であるスティーブ・ジョブズは、1979年にPARCに見学に行った際、アルトを見て新時代のコンピュータの予感を得る。ゼロックス社自体はこのマシンの歴史的重要性に気づくことなく、アルトプロジェクトは中止されるが、その意志を継ぐごとくアップルは1983年のLISAを経て1984年のMacintosh発売へと至る。ただし初代のMacintoshはアラン・ケイに「1リッターのガソリンタンクしか持たないホンダ」と酷評される。

Macintoshの先進性に後れをとっていたマイクロソフトも1990年代になって、CUIベースのMS-DOSに、無理矢理GUI風のシェルをかぶせて何とか形にしたWindows3.Xがようやく実用レベルに達する。そしてMacintoshから遅れること11年、本格的GUIを採用したWindows95の登場により、マウスなどのポインティングデバイスがパソコンの入力装置として広く受け入れられるようになる。

(注6)プルーストの「失われた時を求めて」で一枚の写真を見て語り手が陥った、撮影者=目撃者の位置に自分が立ってしまうというというファンタズムは写真的なるものの特性を見事に語っている。

写真が露光時の厳密な一瞬を際だたせ、かつてあった時間=過去=事実という時間性を強力に成立させてしまう構造的特性は、過去を蓄積しようとする者と、それに抵抗する者との対決という形で、椎名林檎の「ギブス」でも触れられていた。

(注7)「表象(representation)」という言葉は、もともとre(再び)presentation(現前させる)という意味であり、背後(subject)の構造を想定し、その構造が認識可能な世界(object)に再現前representationされるという論理を含んでいる。

この場合「背後の構造」というのは実在や概念などであり、「認識可能な世界」というのは、言語や広義の記号などであると、とりあえず考えていいだろう。表象というのは西欧的な思考の根幹を形成していて、表象にはつねに、表象されているものが対応して存在しているとされている。そしてこれは西欧的な文化の一形態である今日の純粋美術のあり方にも大きく関わっている考え方である。

例えば私たちは、まずイメージやコンセプトなどの概念が頭の中(作者の内面)にあり、その後にそれを(作者の外部に)対象化し再現前させたものが作品であると考えがちである。またなにがしかの実在の兆候を作品に反映させるというのも私たちにとっては親しみ深い考え方だ。したがってその場合(作者にとっての)理想的な作品とは、概念や実在が、作品と完璧に対応しているものということになる。この対応関係をここでは仮に「透明性」と呼ぶことにするが、伝統的な作品制作と作品理解の根底には、こうした表象作用への透明性信仰が大きく横たわっている。

(注8)2001年の風吹ジュンと1977年の風吹ジュンが同時に登場する日本酒のCM画像そのものから、それが事実であるか事実でないかを決定する事は最終的にはできない。一般的に証拠能力があると考えられている画像は、その実人々の記憶というあいまいな傍証があって初めて事実と認定される。画面の中に生起するのは2001年でもなければ1977年でもなく、ただ「あるかもしれないし、ないかもしれない時間」である。

(注9)写真が真実を写すかどうかについて、1989年アメリカとリビアで国家間紛争が起きている。国連安保理事会でアメリカはぼやけた一枚の写真を提出し、そこに確かにミサイルが写っているとして自国のリビア機撃墜を正当化する。一方リビアは、それがハリウッドの国アメリカの写真であるがゆえに、操作された画像の可能性が高く、リビア機撃墜の不当性をくつがえす証拠にならないとした。

(注10)たとえば最高の輝度は「ffffff」のような形で表され、最低の輝度は「000000」になる。

(注11)フランスの哲学者ポール・ヴィリリオは、「潜在的イメージ」の中で、イメージが眼球的、網膜的なものから、意識や精神的な構造やヴィジョンへと移行しつつあると指摘する。

(*1)(*2)アスキー出版「アラン・ケイ」